生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

欠けた記憶の話

 記憶喪失って現実に起きるもんなんすねっていうのは倒れた時に思ったことではあるんだけれども。

 

 どうやら、肉体の損傷による記憶喪失とは別に、私は記憶を失っていたらしい。そしてその喪失は、無意識の内に意識的に行われていた。

 前者は、倒れた時の、比較的短期間の記憶喪失で、“忘れているという事実”を認識できていた。

一方後者は、長期間の記憶喪失であり、私はしばらく“忘れているという事実”すら忘れていた。

いや、意識的に目を逸らしていたというべきか。自分ではそんなつもりはなかったのだけれど、私の脳は、勝手にその記憶に厳重な封をして、意識の奥底に封じ込めていた。

 私にとって、該当期間の記憶は“自分をたしかに構成した記憶の一部”であることすら認めたくなかったようなものだったらしい。

 

 もはやそれらの呪縛から解放され、語ることに抵抗もなくなったため、勝手に書いておく。

 私は幼少の頃からだいぶ長い期間、大嫌いなスポーツを強制的にやらされていた。

節目節目でそのスポーツから逃げようとしていたが、親が私をそのスポーツに縛り付けていた。私には今でも何故親はそんなことをしていたのか?の理由が分からない。

 話は変わるが、私は小さい頃、絵を描くことが好きで、教室にも通っていた。

教室の近所の公園で下書きをして、油絵の具をべったりとキャンバスに擦り付けていた記憶すら、巻き込まれて忘れていた。

うん、あれは実に楽しい経験であった。

 嫌いで強制的にやらされているスポーツと、好きで能動的にやっていた絵画と。

私がどちらを続けたかったかといえば明白であろう。

 私はスポーツをやめて、絵画をやりたかった。そしてそれを親にも伝えた。拙いながらも、自分の言葉できちんと伝えたつもりだ。

 だけど結果として私は、スポーツを続け、絵画をやめる羽目になった。

 多分、私はそこで学び、一種の諦観の境地に達したのだと思う。

『この人たち(両親)は私を人間だとすら思っていないし、これから先も余程のことがなければそう思うことはないだろう』と。

 だから、とにかくそんな人たちから逃げ出すために、従順に従って“やった”。嫌いなスポーツを、嫌いな人間たちと共に、嫌いな顧問の元で、続けた。

そこそこの成績も残していたけれど、そんなことすら記憶から追いやられていたくらいには忘れたい記憶だったのだろう。

今から思い返して、あの時期の自分はよく耐えたと思う。

10年間も、あんな古臭い考え方が支配する場で、

訴えさえすれば、顧問の内少なくとも誰かひとりの首が飛んでいたとしてもおかしくはなかった程のパワハラが横行していた場で。

辞めたくても辞めさせてももらえず、辞めさせないのは親の方なのに

「どれだけの金がかかってると思ってるんだ」やら

「あなたのためを思って」やら言って、あたかも私の方に辞められない原因があるかのように扱われて。

親が私に包丁を投げつけてきた理由に、そのスポーツのことも含まれていたことを思い出した。

 私は耐えた。耐え抜いた。

何故なら逃げ場はなかったから。理解者がどこにもいなかったから。そうして耐えきった後、私は思ったのだ、なんと無駄な時間であったろうか、と。その忍耐が無駄でしかなかったことに、気が付いた。

 

 気が付いてからはもう、理由をつけて逃げ出した。だけどやりたかった絵画には復帰させてもらえなかった。今でも

(もしあの時絵画に復帰していたならば)と思ってしまうことはある。

 

 親は私を人間だと思っていなかった。人間扱いをしたことなんて一度もなかった。

自らの社会的な面子や世間体を保つために利用する、少し扱いが面倒くさい道具としてしか扱われていなかった。

当時の私がずっと感じていて、だけど言語化することがかなわなかった違和感の正体はこれだ、今ようやく分かった。

“両親が自分を人間扱いしていないこと”だ。だからか、私があの時恥をかいたのは。あの時も、あの時も。

 

 

 失っていた記憶の存在に気が付いたから、と、サルベージしようと思ったら思いがけず心にダメージを食らってしまった。

 私は、ヒトとして生まれながら、人間としては育てられていなかったのだ。