生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

普通が難しい

 口語コミュニケーションによる“お気持ち”も“ニュアンス”も、“察する”も大嫌いだ。

 

 

 その点、文章はいい。

はっきりとは書かれていなくとも、感情や空気感を推測するための情報は全て文章のどこかに“必ず”ある。あえて、意図的に“書かれていない”ということから推測することだって出来る。

文章は、“書かれていること”と“書かれていないこと”がはっきり分かって、後から見返すことが出来るのが特にいい。

口語コミュニケーションでは読みとるのが苦手な“お気持ち”や“ニュアンス”、“察する”だって、ゆっくり、自分のペースで、正確に文字を精査して想像することができる。

全部書かれていて/書かれていないから、いい。

 

 一方で口語コミュニケーションはなんだ、杜撰にも程がある。受け手の技量に依る部分があまりに大きすぎる。

 まず、声に出した言葉は後から読み返せないのが駄目だ。言ったことを言わなかったことに/言わなかったことを言ったことに出来てしまうのが駄目だ。毎分毎秒、話し手に都合のいい改竄が行われ、情報が更新され続けるのが駄目だ。

 そして、推敲できないのも駄目だ。一度口から発した言葉を、戻して校正できないのも駄目だ。毎回がぶっつけ本番であるのが駄目だ。

 何より、提示されていない、“暗黙の了解”とも言える何かを前提としているのが駄目だ。参入障壁が高いのが駄目だ。知らない/必要な情報を、その都度調べる時間なんて1秒も与えられないまま、知っているという前提で話が進んでいくのが駄目だ。

 文字には含ませることが出来ない情報を、声のトーンや声量、アクセントで混ぜ込ませてくるのも駄目だ。文字であれば全て公平に、フラットに読み取れる文字たちに、そうやって優劣が付けられるのが駄目だ。

 話し手が語りそびれた情報のせいで、聞き手が失敗しても、受け手の責任になるのが駄目だ。ここでもやはり言った/言わない論争が起きるのが駄目だ。

 

 伝えたいことは全てテキスト化してくれないと私は分からない。頭が悪いから。

 どうして、この社会がテキストに記されていないことを読み取れることを前提に回っているのかが、私には分からない。

記さなかった側ではなく、記されていないことを読み取れなかった側にこそ全ての過失があるとして責められなければならないのか、分からない。

 

 

 この社会には分からないことがあまりに多すぎて、私は生きづらい。