生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

暇潰しの妄想雑記

 本を読んだ。話を書いた。

 

 

 希死念慮精神科医に吐露した際、

「死んじゃったら元には戻れないよ?もし死んじゃってからやっぱり生き返りたい、なんて思っても戻れない。死後の世界が今よりもいいなんて保証はどこにもないんだよ?」と言われた。それを聞いた私は、二度とこの医者には本心を語るまい、と思った。

 

 死後の世界について考えた。

私は、初詣などの習慣として組み込まれている行動以外に積極的に行う宗教的なことはしない。ふんわりとした無宗教だ。輪廻転生といった考え方よりも、「死んだ人間は21グラム軽くなる」といった考え方を好む人間だ。

死後の世界の有無は、私たち生身の人間には感知できない。“ない”を証明することは出来ない。だから都合よく、“ある”ものとして考えた。

 

 死後の世界を認識するには主体が必要だ。認識する/観測する器が。それは“意識”と呼ばれるものかもしれないし、もっと別の何かかもしれない。

ただ、あらゆる存在は認識されることによって成立するものだから、認識しようとする何か───ここでは便宜的に意識と呼ぶ───は存在しなければならない。

当然肉体も脳味噌も死んでいるから、それらに依る訳にはいかない。そこで都合よく責任を押し付けることが出来るのが“21グラム”ということになる。理屈はよく分からないけれど、実際消えてるんだから押し付けてしまおう、という。

 死後の世界があるとするならば、それを認識する意識もなければならない。時に、魂と呼ばれることもあるものが。

 

 解釈がある。前述の認識/観測は、解釈の一形態に過ぎない。意識は死後の世界を各々の方法によって解釈する。その方法によって、死後の世界の有無は揺らぐ。

 死後の世界があるとするならば、それは第三者により解釈されなければならない。

 

 

 頭が重い。上手く回せない。多分薬のせいだ。だけど私にはもう、暇潰ししかない。だからこそ暇潰しに全力を注ぐのだ。

 

 

 

 死後だろうが生前だろうが、要は解釈の問題なのだ。

私たちは生きている間中ずうっと、自身の肉体というフィルターを通して世界を解釈し続ける。だけどそれは、私たちが三次元に生きているからじゃないか?とも思った。

 

 高次元の存在にとって三次元とは?と考えた。

多分、私たちにとっての一、二次元同様、“作品”や“表現”のひとつ、なのではないか、と。

 私たちは切り取られ、繰り返し再生される作品の中にあり、自我だと思い込んでいるものは高次元の存在によりプログラムされたものでしかないんじゃないか、と。

 私たちの意識は作品の一部に過ぎず、この宇宙は三次元の白紙に焼き付けられた創作物。

 私たちは死んだ瞬間に21グラムの意識を抜き取られ、生まれた瞬間の同じ肉体に差し込まれる。同じ人生を、レコードの溝を進む針のように繰り返す。

私たちに定められた未来を変える力はなく、ただただ同じ人生を繰り返すだけ。

 死後の世界とは則ち、生前の人生。同じ人生を、同じ条件で解釈する。

生前に救われなかった者が死後救われることもない。死後と生前は同じこと。

 

 

 何度目とも知れぬ人生。終わった途端に振り出しに戻される。やることなすこと全て、予め定められている。繰り返される。