生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

「そんなに概念的なことから悩んでいるの?」

 私には未だに、友達が分からない。友達どころか、何も分かっていない。

 

 

 定期的にカウンセリングを受けるようになった。効果があるかは分からないけれど、何もしない/誰とも話さないよりマシだと思うから続けている。

 

 今日のカウンセリングで、カウンセラーの方に言おうと決めていたことがあった。

「もう頑張りたくないです」

私はそう言おう、言ってしまおうと思ってカウンセリングに臨んだ。

だけど、カウンセラーの方が主導権を握るカウンセリングの中でそう口を挟めるような流れはどこにもなくて。とうとうカウンセラーの方に、

「あなたは頑張りすぎなのよ」

と言われてしまった。言われたかった/求めていたはずの言葉。なのに、先手を打たれただけで私はしどろもどろになってしまって、咄嗟に

「いや、私は頑張っていないです。何も」

と答えた。改めて言葉として「頑張ってる」と言われると、それはそれで違和感があるように思えたからだ。

 本当に頑張っているならば、もっと色々上手く行っているはずだ。頑張っていないから、変なところで躓いているんだ、と。自分の報われなさ/無能さの言い訳をそこに求めていたんだと思う。

ああ、頑張っていないからこんなに“出来ない”のか、と、自分を納得させるために。そして、“きちんと”頑張りさえすれば、万事上手くいくはずなんだ、と。自分には理解できてない、“正規の頑張り”のようなものに、救いを求めていた。

 

 自分が頑張った、と感じたことは、大体親から「頑張っていない」と一蹴され続けてきた。だから、私にとっての“頑張り”は他人から見たら頑張りでも何でもなくて、それを認めてほしいと思うのは甘えなのだとしか思えなかった。

 そうしている内、私はどこからならば「頑張った」と言えるのか、すっかり分からなくなってしまった。どんなに頑張っても、(これでも他人からしたらまだ“頑張っていない”なんだろうな)と思うようになった。

 

 そうして今日ようやく言われた、「あなたは頑張っている」という言葉は、そんなに簡単にかけてもらえる言葉なのか、と思って、目の前の人が嘘を吐いているんじゃないか、お世辞を言っているのではないか、とも思えた。

だって、こんなんで「頑張っている」なら、今まで私はどれだけ頑張ってきたことになるのだろう。今までのが頑張りだとするならば、今の自分がこんなに生きづらくてたまらないのは何故なんだろう。これから先、どうすれば私は生きづらさから逃げ出せるのだろう。不思議で仕方なかった。何も分からなくなった。

 

 

 少し考えていることを話しただけで、

「そんなに先のことまで考えているなんてすごいじゃない」

と感心された。

上手く生きられないから、せめてシミュレーションだけはしておかなければならない、と考えていただけで、特別なことのようには感じていなかった。しかも、それをしても尚上手く生きられていない自分を省みて、そのシミュレーションすらも不十分だと考えていただけに、その言葉を素直に受け取ることは出来なかった。

 

 友達についての問いに対して、

「“友達”が分からないんです」

と答えた。「どういうのが友達なのか、分からない」と。

カウンセラーの方は

「そんなに概念的なことから悩んでいるの?」

と聞いてきたが、私にとってはその概念を理解するのが到底不可能なことのように思えてならなかったのだ。

 色々な例を挙げた。

「自分としては相手のことを友達だと思っているけれど、相手からしたら自分は友達でも何でもないかもしれない、と思うと分からなくなって」「相手に自分は付き合ってもらっている/相手を付き合わせてしまっているだけとしか思えなくて」

とも言った。

カウンセラーの方はそれらを聞いて、

「それって、友達じゃないの?」

と返してきた。

 だけど私にはそうは思えなかった。自分の本音や本心を明かし合える人が、カウンセラーの方が言うところの“友達”概念の中にはひとりもいなかったからだ。

 私は、余計に“友達”が分からなくなった。

 

 

 私は友達でいたいと思う相手から、色んなものをもらった。私は相手と継続して友達でいたいと思うが故に、それに何かお返しをしなくてはならない、という気持ちに苛まれた。じゃなきゃ、無価値で面白くも何ともない私なんて、容易に切り捨てられる、と。

 だから私は、目に見える形で贈り物をするようになった。悪く言えば友達料のようなものだった。だけど、それを渡すことでようやく、私は相手に対する引け目から解放されていた。これで、友達でいられるんだ、とも思った。

 世間一般からすると歪なのだろう。それでも私には、そういう友達の在り方しか理解することが出来なかったのだ。