生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

悲しくなくても涙は勝手に出てくるのだ

 いつの間にか3月も半ばを過ぎそうになっていた。Twitterは時間の進みが遅く、Instagramは時間の流れが早い気がする。

Twitterに入り浸る私は、Instagramを覗く度にそのギャップに苦しめられる。

 

 

 考え事をすることが増えた。肉体的な活動予定がなく(入れることも出来ず)、思考のみを走らせることしか出来なくなったためだ。

 私は忘れっぽいから、以前気が付いたことも簡単に忘れて、また考え直して新たに気が付いたように振る舞っているのだろう。記憶になく、記録を遡る勇気すらもない私にそれを確かめることは出来ない。

私は気付き、忘れる。その繰り返しだ。

 

 自分が抱く好悪くらいは自分の裁量で決めたかったな、と思う。自分の“好き”を否定されることに慣れきってしまって、“好き”すら歪んでいた。

人に理解されない物は初めから好かないようにして、人に理解されそうな物を好きだと思うようになった。

 これを考えるのは何度目だろう、それすら思い出せない。

 根っこから腐りきったわたしは、この先どう矯正しようとも腐った枝を伸ばすことしか出来ないのだろう。そう考えると、さっさとこんな人生終わらせたくて仕方がなくなる。

 

 身体が痺れる。その感覚が気持ち悪くて、ただ横になるだけのことすら困難だ。起きている間中痺れに苛まれるものだから、起きていたくないと思うようになった。可能な限り寝るようになった。他人の楽しそうな生活と、自分の最低最悪な生活とのギャップを認識したくないから、という理由もある。

 

 多分、今自分の中にある「死にたい」は、「寂しい」だったり「助けて」だったりで言い換えられるのだと思う。だけど、言い換えたそれらを誰かに言って拒絶されるのが怖くて、「死にたい」でお茶を濁すのだ。

 

 

 寂しい。助けてほしい。それらを誰に言えばいいかすら、私にはもう分からなくなってしまった。