生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

ジェットコースター

 死ねるような場所があるエリアを抜けるまで人に付き添われ、本当ならふらりと落ちてしまえるくらいに疲れ切っていたのに、死ねなかった。何回目だ。呆れる。

 時間がないことも忘れてはならない。残された時間はそうない。

 

 躁鬱ジェットコースター。躁になると詰む。だけど躁じゃないとコミュニケーションに支障を来すくらいに暗い。鬱では人と関われない。多重人格風味。同一人格。連続した記憶。躁と鬱の乖離。

 昔から変わらない。躁で関わって、失敗して、鬱が酷くなる。学ばない、というか、学んだ上でこうなっているのだ。残念なことに。

 人は私の鬱を受け入れない。鬱を押し込めて思考を外に向けると、躁が顔を出してくる。程良い瞬間なんてない。境界線の向こうかこちらか。

 鬱はもう治らない体質のようなものだから、諦めて対処法を身に着けるべきだ、という言説を見かけた。鬱は突然やってきて、しばらく居座って、去っていく。居座り時に人と会えたり話せたりすれば鬱は早めに去ってくれるが、友達がいないからそんな時に関わってくれる人もいない。レシピはあるのに材料が揃わない。

 鬱は私のアイデンティティの大部分を構成している。だけど大抵の人は鬱の人間を嫌う。面倒くさいと思う。最悪の場合罵倒してくることだってある。好きで鬱な訳でもないのに。理不尽。

 と、ここで、その場しのぎで鬱をどうにかやり過ごしても意味がないことに気が付いた。このまま行けば職はない。それでも私は学業にかけるリソースで頭がパンパンだから、就職活動すらまともに出来ない。まともにやったって障害者というハンデを抱えてやるのはかなりしんどい。

 凪の向こうから恐怖が流れてきた。子供を作るか作らないか。働き方は。老後は。付き合ってもいない人から投げ掛けられる、一方的な精神攻撃。自分も他人にこんなことしてたのかな、してそうだな、反省。とは思ったし、今でも思っている。だけどあれは怖かった。“働き方”がトリガーだったか。迂闊。

 躁鬱ジェットコースターは下降局面に突入しており、いつものことながら終わりが見えない。安定剤。効き目なし。

 人に向けた発言は社会をやる人間として“可能な限りフラット/ポジティブなものでなければならない”をやらなければならない。だからTwitterも対面もまあまあニコニコするけど、それしか人と関わる手段がない私のような人間は簡単に詰む。誰か特定の、反応を返してくれるような人に向けてフラット/ポジティブ以外の発言をする場がないから。言えなかった言葉は消化器官の底に澱のように溜まっていく。異もたれ。

 フラットでもポジティブでもない言葉を聞いて、反応してくれる人がほしかった。