生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

基本姿勢に対する考察

 なんとなく分かったような気がする。あくまで気がするだけだけど。

 

 私は躁鬱というか常に鬱なんだと思う。躁には意識しないと移行できない。躁と鬱が並行して存在するというよりは、鬱がベースにあって、社会をやろうとする時にだけ躁を発現させているような感覚。躁より鬱の時に自分らしさを感じる。それでもまぁ、躁の時の方が楽しいことには違いない。

 私に躁がやってくるのは3,4週間に1度あるかないか。あとはずーっと沈んでいて、たまに死がちらつくくらいの鬱がくる。平時鬱もそれなりに希死念慮をもたらすけど、それよりは鬱が行き過ぎて躁になる時が一番危ない。鬱の時に思いついたけど、エネルギー不足で実行できなかったことだって躁の時には出来てしまう。

しかも、そういう類の躁は大抵ひとりの時に罹患するから余計に質が悪い。自分の中では「今は鬱ではなく躁」みたいな自覚でいるから、今なら暗い絡みはしないだろう、と思いながら“表面的には明るいものの、気を遣うと鬱を読み取ることもできる”言葉で絡みに行ってしまう。無意識に、そういう言葉が生成されてしまうようになる。

そしてまた、躁が切れた時に鬱まで落っこちた時に酷い目に遭うのだ。私は忘れっぽいから、それを何度も繰り返している。

 

 何だっけ。何を書こうとしていたんだっけ。思い付いた側から忘れていく。そこに記憶があったという枠だけ覚えている。

 

 あぁ、思い出したかもしれない。

 不信感。とりあえず忘れない内に単語だけメモしておく。子が最初に信じるのはきょうだいだったり両親だったり祖父母だったりすると思う。私にはきょうだいがいないから分からないけど。少なくとも、私は両親に裏切られ続けたし、祖父母には期待するだけ無駄なことも理解した。両親は直接連絡を取り合いたくないからと、私を介して陰口を言い合うことが多かった。多い。でも私は面倒くさくてどちらにも陰口を渡さなかった。全それをし始めてそろそろ10年になる。陰口は処理しきれず私の中に溜まり、同時に不信感を生んだ。きょうだいがいない子が真っ先に頼る筈の両親は、子が頼ることを許さず、子を頼っていた。友達のいない子が頼れる誰かはどこにもおらず、笑っちゃうくらいに頭がおかしくなった。

 年々、誰かを信じることへの抵抗を感じるようになってきていて、なんなら自分自身のことも信じられなくなってきた。

自分が言った/思った/考えたことが“ほんとう”だったのかなんて確かめようがないから、余計。

 個人的には、信じるって極論、(無機有機問わず)何かに縋ることだと思うのだ。“信じる”を色んなところに分散させて初めて人は真っ当に生きられて、ひとつところに集中させてしまうと信者になる。集中すらさせず、どこにも向けないと、よく分からないけど、壊れてしまうんじゃないか。

 今、(推測でしかないけど)私は何かを信じているのだろう。心当たりはいくつかある。そして同時に、その対象のすべてに“いつ崩壊してもおかしくない可能性”がある。崩壊するだけの理由がそれぞれにある。そういう自覚がある。たまたま運が良かったから崩壊していないのか、とっくに崩壊しているけど崩壊していないように見せかけられているのかは分からないけど、今のところ崩壊していないように見える。いつ崩壊してもおかしくないな、と思いながら生きている。

 私はいつか来るであろう崩壊に怯えながら、「とりあえず今は崩壊していないようだ」という観察結果を信じて生きているに過ぎない。

 

 それ自体の強度に疑念が生じる/生じている自覚があるものを信じること自体が不安定なのだと思うが、生憎私にはそれ以外の手段が用意されていない。