生まれたてのこじか日記

短期記憶がすぐ消える暇人の肉体から乖離して独立した“書き手”という非実在存在の備忘録 この内容が本当か嘘かは“書き手”自身にも分からない

自己肯定感が消え、社会より人間を好んだ

 20年にわたる私への否定は、私から自己肯定感を根刮ぎ消し去った。

 

 ついこの間、普段全然会話をしない父親に、珍しいことを言った。「私って頑張ってるよね」「私って真面目だよね」と。答えは何だったと思う?

両方Noで、「調子乗ってんじゃねぇよ」と言われた。そういうことを聞く度に同じ答えが返ってきたなぁ、そういえばここはそういう環境だったなぁ、なんて思った記憶。
 私から自己肯定感が消えた理由のエピソードなんて、これで十分だと思う。


 家庭外で周りから、「それはあなたが大人なんだよ」という旨を伝えられる度に(馬鹿にしてるのか)という思いが積もっていった。現に、馬鹿にしているようにしか聞こえなかったのだ。だって、私が大人な訳がない。私は大人なんかじゃない。
 そうやって周りから褒められる→褒めてくる相手から馬鹿にされているような気がして受け入れられない、を繰り返す内に、そもそも褒められること自体が無くなりました。まあ今でも尚仮に褒められたとしても馬鹿にしてるのか?と思ってしまうだろう。

 

 周りからの慰めで、先述の「それはあなたが大人なんだよ」と言われるのが、本当に好きではない。自分が面倒くさい人間だと───全く間違っていないが───見なされていることが伝わってくるからだ。面倒くさい人間だから、とりあえず持ち上げておこう、という意図が透けて見えるからだ。

それと似たカテゴリに「あなたは悪くない」があるけど、これもまあ気分が悪い。それよりは面倒くさいなら面倒くさいと言ってくれる人間と関係を持ちたかったなぁ、と。

それに近いのは、大学で構築した関係より高校で構築した関係の方なのかなぁ、と思う。私のことなんかこれっぽっちも尊重していなかったけれど、その分真実があった。大学に来てからは、人権が与えられて、尊重されもしたけれど、真実はなかったように思う。

表現の綺麗/汚いではなく、社会をやるか人間をやるか、みたいな違い。大学は社会をやる場で、高校は人間をやる場だった。

 

 よりフランクな表現に真実を感じるようになってから、同性より異性の方が真実を語っているように思った。

これも今から思えば、同性だからこそ“社会をやっていることが分かる解像度”で物事が見えて、異性だからこそ“社会をやっていることが分かる解像度”までは上げられなかっただけなのだろう。

もう少し解像度を上げれば、異性も社会をやっていたことに気が付いたのだろうけど、私は異性が人間をやっているところまでしか見られなかった。そしてそこに居心地の良さを感じてしまった。


 社会ではなく、人間をやる幼稚さ(実際には表面的なものに過ぎなかったが)は、急に表れた社会に疲れ切った私の粥になった。

異性からしたら「こっちは社会をやっているのに表面的なものだけ見て勝手に親近感を持たれても困る」だったんだろうが、当時の私はそんなこと考える余裕のある大人ではなかった。今よりももっともっとガキだった。

 

 今。人間関係は希薄になり、関係性からは人間が濾過されて、社会のみが残された。最終的には自分が苦手とした社会だけが残るなんて、皮肉にしたって出来過ぎていないか、と思う。
 残された社会は、当然のように私が苦手なことをする。「それはあなたが大人なんだよ」をやってくる。社会をやる距離なら対応できるけど、自分が人間をやりたい距離で社交辞令を吐かれると気疲れしてしまう。

 


 別れ際に発露した私の人間───文章化するのも憚られるくらいの───に対して吐かれた「また会おうね」はたしかに社会であった。